森山の現代文 第2講 デカルト 合理主義
「近代」の出発点はいつなのでしょうか? これは分野や立場によっていろいろな考えがあります。
政治・国家という分野では、市民・個人という考え方が生まれた「市民革命」以降を近代と考えますし、経済的な分野では大量生産が可能となった「産業革命」以降を近代と考えます。また科学の発展が近代化に大きくつながったことは言うまでもありません。
そして、哲学・思想という分野においては、宗教・神・信仰に依存し、真理を獲得するという中世の考え方を脱却し、人間が自ら持つ意識・理性によって、主体的に真理を獲得するというデカルトの「合理主義」が近代の出発点となりました。デカルトは「近代哲学の父」と呼ばれています。
デカルトは、この世界を成り立たせている「真理」を獲得するために、それまで常識とされてきた先入観をすべて捨て去ろうと考えました。(「現代」の私たちが、よりよい未来のために「近代」に作られてきた常識をもう一度見つめ直し考え直そうとする態度に似ていますね。)そのためにデカルトは目の前にあるすべての物を疑っていきました。すると最後にどんなに疑っても疑いきれないものがあると気付いたのです。それこそが、「すべての物を疑っている私」だったのです。今ここで物事を疑ってている私自身の存在はだけはどうしても否定できない、つまり「私自身の意識」だけが確実なものであり、このような人間が自ら持つ意識・理性によって、主体的に真理を獲得していかねばならない、このような考えを「近代合理主義」というのです。ちなみに「われ思うゆえにわれあり」というデカルトの有名な言葉かこの考えを示す言葉なのです。
さて、デカルトが「近代」に対し大きな影響を与えたもう一つの考え方があります。それが「物心二元論」です。