中学受験・高校受験のための国語読解力 ~小説編①~

「読解力」とは何か?
  国語の試験を行なうと必ず皆さんがいうのが「ボクが国語できないのは読解力が無いせい・・・」「ウチの子は読解力が無いから国語ができなくて・・・」という台詞です。でも読解力ってなんでしょう? そもそも、日本語圏内で不自由なくコミュ二ケーションが取れ生活ができているわけですから、「読解力」=「日本語能力」というわけでもないようです。では「読解力」という語が一般的にどのような場面で用いるかを想像してみると、難しい話が通じない場合や、文章を読んでも意味がわからなかったりする場合に「読解力がない」と私たちは言います。そう考えていくと、日常の目の前にいる相手とのコミュニケーションや具体的な事物を目の前にした言語能力にはそれほどの問題が無くとも、目の前に具体物が無く頭の中にあるものを想起しながら行なわれる(特に具体的な物や形がない抽象的な事柄が話題とされる場合の)文章や会話において理解力が劣ってしまう、これが「読解力が無い」ということなのです。でもよくよく考えてみると、それを単に「読解力」という一つのものの欠如としてとらえていいのでしょうか? 実はこのような一般的に「読解力が無い」と表現する場合において、いくつかのさまざまな力が複合的に欠如しています。つまり「読解力」というのはいくつかの力の複合体なのです。では、それらが具体的にどのような力なのか見ていきましょう。
「語彙」
 当たり前ですが、言葉を知らなくては、意味は通じませんし理解することもできません。ですから、文章を読む時に辞書を使って「言葉調べ」「単語調べ」をすることはとても大切です。ただここで「言葉」「語彙」というと「名詞(物の名前)」を思い浮かべる人が多いのですが、実は「形容詞」「形容動詞」「副詞」が重要になります。というのも、これらの語は、ある人の心情や判断や態度を示すことが多いからです。特に小説などの人間の心理変化を描写した文章では、これらの語が重要な鍵を握ることも多いのです。また、「形容詞」「形容動詞」「副詞」には、知っていると思っても漠然としていて、いざとなると他人に説明できないという言葉が多くあります。このような言葉を辞書で引き、ニュアンスを明確に理解することも重要です。そのちょっとしたニュアンスの理解の差が状況把握に多きな差をもたらすこともあります。そのような点も踏まえ、辞書を使う習慣を身につけていくことが必要となります。
「知識力」
 子どもが大人の話を聞いていて理解できないという場合があります。これは私たち一般人が、ある専門分野の学会に参加しても理解できないという場合と同じです。つまり、その話の背後にあるべき知識体系がないからです。逆に私たちが多少の知識を持っている話題ならば、ある程度興味を持ってその話題に参加することができるでしょう。ではどのようにこの「知識力」を身につければよいのかというと、これはなかなか難しいのですが、一つは、どんな文章であっても、それを読んだ後に自分の中でしっかりと内容を消化しそれに対する自分の意見をまとめておくことです。こうすることにより、次に似たような話題が出てきたときに、思い出すきっかけにもなりますし、自分の意見を介して両者を比較検討することもできるようになり、興味を持って接することができるようになります。もう一つは、偏った種類の文章ばかり読まないように心掛けることです。もちろん自分の得意分野はあったほうがいいのですが、その反面、広くたくさんのことに興味を持って接するようにすることが重要となります。
「発見力」
 一般的に「読解力」と言われるもので最も重要になるのがこの「発見する力」=「気付く力」になります。では「何を」発見し気付けば良いのかというと、それは会話であれば「いつもとは違う態度や会話に気付くこと」であり、文章ならば「作者がわざわざ書いた表現や構造に気付くこと」です。
 まず会話の場合を考えてみましょう。例えば朝起きるといつもは「おはよう」と笑いながら声をかけてくれる母親が、今日はニコリともせず無言のままだったとします。すると「機嫌が悪いな」と気付きます。このように「いつもと違う」ということが、「あるメッセージ」になっているのです。このメッセージに気付くことが「読解力」の重要な部分なのです。あるいは、通りを歩いていたら、向こうから上を見上げながらこちらに歩いてくる人がいたとします。その場合あなたは「空か頭の上に何かがあるのかな」と思いあなたも上を見上げるでしょう。でも空にもどこにも何もなかったとしたら、次にあなたは「自分が見えないだけでやはりどこかに何かがあるのかもしれない」と思うかもしれませんし、「あの人は首が痛いのかもしれない」と思うかもしれませんし、また「自分の知らない体操が流行しているのかもしれない」と思うかもしれません。このように、いつもとは違う態度や会話から、さまざまなことを考え、そこにメッセージや意味を見出すことが大切なのです。毎日の生活の中で「あれ、いつもと違う」「何かが違う」と気付けるように努力してみましょう。
 次に文章について考えてみましょう。この文章というのは、日常の会話や態度と決定的に違うことがあります。それは、文章に書く内容は作者が選びとっているということです。現実世界と比較してみるとよくわかりますが、私たちの身の回りにある現実世界には、私たちに関係のあるものあれば関係のないものもあります。私たちに意味ある物もあれば意味のない物もあります。ところが、文章に書かれた内容は、作者がその作品世界に必要だと考えわざわざ描写しているものなのです。基本的に作者は必要のないものまでを記述することはありません。例えば私たちが作文を書くときに何を書くでしょうか。それは楽しかった場面や印象に残る場面で、読み手に伝えたい場面を選びとって書くのです。印象にも残らない、伝えなくてもよいような事柄(道ばたに落ちていた石ころの大きさ)などをわざわざ作文に書く人はいません。ですから、その文章に書かれていることは作者にとって何らかの必要性があり、作者にとって読者に伝えたいメッセージなのです。まずそこに注意して意識的に文章を読み進める必要があります。
 しかし、具体的にその文章の中で何に注目すれば良いかということですが、大きく分けると「対比」「例示・比喩」「問題提起・答」「構成・変化」の4つに分けられます。
  「対比」・・・ある物と別の物を並べ立てることにより、その特徴や性質をわかりやすく説明する。
  「例示・比喩」・・・ある物をわかりやすくするために、具体的な事物や身の回りの物に置き換えて表現する。
  「問題提起・答」・・・ある事柄について述べる場合、興味をひきたてるため問題形式で読み手に語りかけ話題を進める。
  「構成・変化」・・・説明文ならば序論・本論・結論といった作者の考えや説明の変化、小説ならば登場人物の心情の変化が表現される。
 これらは、基本的に読み手が意識的に読み取らなければいけないものであり、読み取れるようになるにはある程度の練習が必要になるものです。しかし、「対比」「例示・比喩」「問題提起・答」「構成・変化」という点を意識しながら読み進めると同時に、先ほど書いたように、「なぜ作者はわざわざそれを書くのだろうか? それをわざわざ書くことに込められた意図やメッセージは何なのだろうか?」と考えながら読み進めていくことによって、「発見する力」=「気付く力」は大きく進歩してきます。
「思考力」
 これはさきほどの「発見する力」=「気付く力」の延長上にあるものですが、「おや、いつもと違うぞ」「あれ、なぜ作者はわざわざそれを書くのだろう」と発見し気付いた時に、そこから自分が「いつもと違うから、どうなのか」「作者がわざわざそれを書くから、どうなのか」と、前に進んで考えていく力です。そしてこの「考える力」は「自分が考える」ことによってしか伸ばすことはできません。人から与えられたり、教えられたり、楽して身に付く力ではないのです。とにかく、なぜだろうと思ったら、自分で考えてみることです。わかってもわからなくても、一生懸命考えることで「考える力」は伸びるのです。また、場合によっては「考える力」には正解がない場合があります。先ほどの例で言うと、朝起きるといつもは「おはよう」と笑いながら声をかけてくれる母親が、今日はニコリともせず無言のままだったとします。その時、なぜだろうと考えて「機嫌が悪いんだ」と思ったとします。でもそれは正解かどうかは自分にはわかりません。ひょっとしたら口内炎ができて痛いのかもしれません。他のことを考えてぼんやりしていただけかもしれません。でも「正解がわからないから、考えても無駄だ」というわけではありません。いろいろなことを考えることにより「考える力」は進歩し、そして人間的に成長できるのです。国語のテストでも記述問題になると「わからないから白紙でいいや」という人がいますが、大切なのはその問題ができるかどうかではなく、そのテストのその問題ができてもできなくても、一生懸命考えることによって「考える力」が伸びるということなのです。そして、次のテストでできるようになるかもしれないのです。「わかる」「わからない」とか、「できる」「できない」とかは、あまり気にしないでいいですから、じっかりと自分で考える習慣を身に付けましょう。
「論理力」
 「思考力」で考えた内容をまとめる力、これが「論理力」です。別の言い方をすれば、自分の考えをわかりやすく、相手に納得してもらえるように説明できる力が「論理力」です。この「論理力」を身につける最良の方法は「書く」ことです。別に小論文などという堅苦しいものである必要はないです。一番のおすすめは、国語の問題集を解いた後で、自分がその内容についてどう感じ、どう考えたかを200字程度で書いてみることです。ただし、書くときに、「どう書けば相手に通じるのか?」を考えることです。どういう内容ならわかってもらえるか、どういう順番で書けばわかってもらえるか、どういう言葉を使えばわかってもらえるか、を考えるのです。こう書けば相手はどう思うか、どう質問するか、どう否定するか、を考えるのです。できるだけ相手に質問されず、否定されず、自分の考えが伝わるように考えるのです。そして、書いたら必ず誰かに見せましょう。できるだけ、質問したり否定したりしてくれる人の方がいいですし、そうしてくれるように頼みましょう。もちろん質問されてそれに答えるのは面倒ですし、ましてや否定されたりすれば腹が立つかもしれません。自分の考えが伝わらなければ悔しいかもしれません。ですから、そうならないように、用心して書くのです。もちろんしっかり書くためには、しっかり読んでしっかり考えなければなりません。だから、この「論理力」が読解力につながるのです。これはぜひ実践してみてください。
  以上、「読解力」とは何かについて、長々とお話をしてきました。ただ、これだけでは、まだ何をどうすればいいかわからないという方も多いでしょうから、次回からは、具体的な読解方法の実践を解説していきたいと思います。
では、その次回に向けて宿題を出しておきましょう。
以下に夏目漱石の「文鳥」という作品の冒頭を掲載しますので、それを読んで下さい。読むだけです。この時、辞書は使わないでください。最初から辞書を使うのではなく、まずはわからない語に線だけ引きましょう。そして、できるだけ前後からそれがどういう意味なのかを類推してみましょう。わからなければわからないままでいいので、先に行って下さい。
辞書を引かなくていいのかという質問が出そうですが、①辞書を引くことに夢中になり過ぎ文脈理解がおろそかになる ②言葉の意味を類推する力も伸ばしたい 以上の観点から、辞書を引くのは2回目以降の読みの時にするのがよいでしょう。
では次回、またお目にかかりましょう。
 十月早稲田わせだに移る。伽藍がらんのような書斎にただ一人、片づけた顔を頬杖ほおづえで支えていると、三重吉みえきちが来て、鳥を御いなさいと云う。飼ってもいいと答えた。しかし念のためだから、何を飼うのかねと聞いたら、文鳥ぶんちょうですと云う返事であった。
文鳥は三重吉の小説に出て来るくらいだから奇麗きれいな鳥に違なかろうと思って、じゃ買ってくれたまえと頼んだ。ところが三重吉は是非御飼いなさいと、同じような事を繰り返している。うむ買うよ買うよとやはり頬杖を突いたままで、むにゃむにゃ云ってるうちに三重吉は黙ってしまった。おおかた頬杖に愛想を尽かしたんだろうと、この時始めて気がついた。
すると三分ばかりして、今度はかごを御買いなさいと云いだした。これもよろしいと答えると、是非御買いなさいと念を押す代りに、鳥籠の講釈を始めた。その講釈はだいぶったものであったが、気の毒な事に、みんな忘れてしまった。ただ好いのは二十円ぐらいすると云う段になって、急にそんな高価たかいのでなくってもかろうと云っておいた。三重吉はにやにやしている。
それから全体どこで買うのかと聞いて見ると、なにどこの鳥屋にでもありますと、実に平凡な答をした。籠はと聞き返すと、籠ですか、籠はその何ですよ、なにどこにかあるでしょう、とまるで雲をつかむような寛大な事を云う。でも君あてがなくっちゃいけなかろうと、あたかもいけないような顔をして見せたら、三重吉はほっぺたへ手をあてて、何でも駒込に籠の名人があるそうですが、年寄だそうですから、もう死んだかも知れませんと、非常に心細くなってしまった。
何しろ言いだしたものに責任を負わせるのは当然の事だから、さっそく万事を三重吉に依頼する事にした。すると、すぐ金を出せと云う。金はたしかに出した。三重吉はどこで買ったか、七子ななこおれの紙入を懐中していて、人の金でも自分の金でも悉皆しっかいこの紙入の中に入れる癖がある。自分は三重吉が五円札をたしかにこの紙入の底へ押し込んだのを目撃した。
かようにして金はたしかに三重吉の手に落ちた。しかし鳥とかごとは容易にやって来ない。
そのうち秋が小春こはるになった。三重吉はたびたび来る。よく女の話などをして帰って行く。文鳥と籠の講釈は全く出ない。硝子戸ガラスどすかして五尺の縁側えんがわには日が好く当る。どうせ文鳥を飼うなら、こんな暖かい季節に、この縁側へ鳥籠をえてやったら、文鳥も定めし鳴きかろうと思うくらいであった。
三重吉の小説によると、文鳥は千代ちよ千代と鳴くそうである。その鳴き声がだいぶん気に入ったと見えて、三重吉は千代千代を何度となく使っている。あるいは千代と云う女にれていた事があるのかも知れない。しかし当人はいっこうそんな事を云わない。自分も聞いてみない。ただ縁側に日が善く当る。そうして文鳥が鳴かない。
そのうちしもが降り出した。自分は毎日伽藍がらんのような書斎に、寒い顔を片づけてみたり、取乱してみたり、頬杖を突いたりやめたりして暮していた。戸は二重にじゅうに締め切った。火鉢ひばちに炭ばかりいでいる。文鳥はついに忘れた。
ところへ三重吉が門口かどぐちから威勢よく這入はいって来た。時はよいくちであった。寒いから火鉢の上へ胸から上をかざして、浮かぬ顔をわざとほてらしていたのが、急に陽気になった。三重吉は豊隆ほうりゅうを従えている。豊隆はいい迷惑である。二人が籠を一つずつ持っている。その上に三重吉が大きな箱をあにぶんかかえている。五円札が文鳥と籠と箱になったのはこの初冬はつふゆの晩であった。
  実際の作品を読むときには、線を引いたり感想を書きこみながら読み進める方が良いので、そういう意味では、やはりPC画面ではなく、ぜひ「本」が手元にあったほうがいいと思います。 この夏目漱石の本はすべて短編ですから読みやすくおすすめです。