紫式部と清少納言
今から約千年前の平安時代、一条天皇には二人の妻がいました。中宮定子と中宮彰子です。
中宮定子は、一条天皇の先の奥さんであり、明るいタイプの女性で一条天皇と仲がよかったようです。この定子のところで働いたのが清少納言です。清少納言の父、清原元輔は有名な歌人であり、清少納言自身も男性顔負けの学問を持っており、時としてはその学問をひけらかすように、自分の知識を惜しみなく出す女性でした。ところが、定子の父親藤原道隆が若くして亡くなると同時に、一条天皇の寵愛は彰子へと向かっていきます。そして定子自身も三人目の子を産んだあと亡くなり、清少納言も宮廷を去ることとなります。あれほど有名な清少納言も、晩年の様子は分かりません。
一方彰子は、後から一条天皇の奥さんになった人です。定子が生きてる間に奥さんになっていますが、一条天皇と定子の仲が非常によかったので、年の離れた彰子にはなかなか子どもができませんでした。また、彰子は大人しいタイプの女性だったようです。彰子の父親は藤原の道長です。定子のところで清少納言が働いていたので、自分の娘にも教養のある人を側につけたい、と思って、紫式部が働くことになりました。紫式部も学問があったのですが、頭は良くても、人前で知識をひけらかさないタイプだったようです。
さて、このような、一人の天皇をめぐる二人の妻というライバル関係の女性のそばで働いていた、清少納言と紫式部もよくライバル関係として述べられますが、実際のところは、紫式部が働き出したころには、清少納言はもう働いてなかったので、二人には面識がありません。ですから、世間で言われるほど、紫式部は清少納言について敵対意識は、実際のところはなかったでしょう。ただし、紫式部自身が次のような文章を書いていたのは事実です。
清少納言こそ、したり顔にいみじうはべりける人。さばかりさかしだち、真名書きちらしてはべるほども、 よく見れば、まだいとたらぬこと多かり。かく、人にことならむと思ひこのめる人は、かならず見劣りし、 行末うたてのみはべれば、艶になりぬる人は、いとすごうすずろなるをりも、もののあはれにすすみ、をか しきことも見すぐさぬほどに、おのづからさるまじくあだなるさまにもなるにはべるべし。そのあだになり ぬる人のはて、いかでかはよくはべらむ。
清少納言は実に得意顔をして偉そうにしていた人です。あれほど利口ぶって漢字を書きちらしております 程度も、よく見ればまだひどくたらない点がたくさんあります。このように人より特別に勝れようと思い、 またそうふるまいたがる人は、きっと後には見劣りがし、ゆくゆくは悪くばかりなってゆくものですから、 いつも風流ぶっていてそれが身についてしまった人は、まったく寂しくつまらないときでも、しみじみと感 動しているようにふるまい、興あることも見逃さないようにしているうちに、しぜんとよくない浮薄な態度 にもなるのでしょう。そういう浮薄なあたちになってしまった人の行末が、どうしてよいことがありましょ う。
これに関しては、先ほども言いましたが、本人同士は年齢や宮仕えの年代も異なり、実際に面識はありませんでしたから、強い敵対意識・ライバル関係から書いたものではないと考えられています。近年では、『紫式部日記』が政治的性格を重視する作品であるという立場から、清少納言の『枕草子』が亡くなった定子を懐かしく思い出し、その頃の思い出に浸るあまり、紫式部の主人である彰子の存在を快く思っていない記述が見受けられる点について、紫式部が苛立ったためとする解釈が一般的です。
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