森山の現代文 第3講 デカルト 物心二元論

 さて、デカルトが「近代」に対し大きな影響を与えたもう一つの考え方があります。それが「物心二元論」です。

デカルトは、「物」と「心」をまったく異なる物として分け隔てました。例えば、ここに「美しい花」があるとします。ところがデカルトはこの「美しい」と「花」を分けて考えるべきだと主張するのです。確かにこには「花」という「物」があります。しかし、その花を「美しい」と感じるのは「心」の働きなのです。つまり「美しさ」は「花」という「物」の中にあるのではなく、「美しい」と感じる「心」の働きの結果なのです。

あるいはアニミズムと言って、中世までは自然の中には、ある種の目的や意志が宿っていると考えていました。ですから。昔から「岩石」や「樹木」は、その中に大切な魂や神が宿っていると考えられ、祈りや信仰の対象となって、砕いたり切り倒したり、あるいは移動することすらできませんでした。ところが、「物心二元論」によれば、「岩石」や「樹木」は結局のところただの「物」であり、それを大切だと思い祈ろうとするのは「心」の働きからで、「物」そのもののなかに本当に魂や神が宿っているわけではないということになります。

このように、「物」「物体」「身体」「客観的対象」と「心」「魂」「精神」「主観的心情」をまったく別のものとして分断し、「心」の本質を「思考」とし、「物」の本質を「延長(ある空間を占める広がりのこと)」と定義付けたのです。

この考えは、それまで、「物」と「心」にわけて考えるという週間のない当時においては、実に斬新な考えで魅力的なものでした。特に科学者にとっては、自分が研究しているものを、「心」「魂」といった目に見えないものに怯えることなく、純粋にただの「物」「客観的対象物」として扱うことができるようになったという点で、科学の進歩に大きな影響を与えることになりました。

このように、科学の発展に寄与したという点で「物心二元論」が現代に大きな利益をもたらしたのは間違いのないところですが、しかし、逆に「物心二元論」が「現代」に大きな問題を引き起こす根源となっていることを私たちは見逃してはなりません。

ここで、「二元論」というものについてもう少し考えてみましょう。「二元論」とは二つの背反する原理によっていろいろなものを説明しようとする考え方で、わかりやすいところでは〈「男」対「女」〉とか〈「人間」対「自然」〉とか〈「都会」対「田舎」〉などがあります。

ところで、ここで注意しなければならないのは、この「二元論」における二つの原理は、対等な立場ではないということです。例えば〈「男」対「女」〉という二元論を考えてみると、人間社会では歴史的に男性中心主義社会で、女性は社会の中心から外れた場所に存在していました。つまり「男」=「中心」、「女」=「周縁」であったのです。もちろんそのような男性中心主義は見直され、「現代」においては(少なくとも表面的には)「男女平等」というのが社会の基本概念となっています。しかし、よくよく考えてみると、「男女平等」ということばそのものが、男性中心主義という歴史的経緯の結果発生したことばなのです。もし、男性中心主義がなければ、そもそも〈「男」対「女」〉という二元論は発生して来なかったと言えます。

このように、二つの背反する原理によっていろいろなものを説明しようとする二元論的思考の中で、私たちは、一方を「中心」(=優位概念)、他方を「周縁」(=劣位概念)に位置付けて、気付かぬうちに、二つの原理の間で優劣を決めているのです。

では、デカルトの「物心二元論」の場合はというと、もちろん、「心」が「中心」で、「物」が「周縁」になります。そしてさらにそこから、「機械論的自然観」や「人間中心主義」という考えが生み出されるようにあるのです。